物事の「本質」を見ているか?
物事の「本質」を考えているか?
その行動の本質はなんだろうか?
その考え方の本質はなんだろうか?
国が変われば考え方も変わるというのは本当だと思う。
特にフィンランド在住の筆者が最近東京に5週間ほど滞在する出張をしているから。
住み慣れたフィンランドから東京へ5週間も生活すると色々はっきりと対照的なものが見えてくる。
その一つ最も大きいなことは「本質を見ているかどうか」だ。
なぜか東京で生活していると「本質」が見えにくくなる。
そして、人々は「型」「形」ばかり追求するように感じる。
それはなぜだろうか?
この質問を聞かれると、おそらく多くの人は「社会文化」の違いや「国民性」の違いというあいまいな単語を使うことで本当の理由を探ろうともしないだろう。
僭越でありながら筆者の観点から言わせてもらうと、その理由は社会文化の違いでも国民性の違いでもない。
その理由は「社会制度」にあると筆者は強く思う。
なぜ「社会制度の違い」だけでフィンランドの生活がより本質を見つめることができるのに、日本の生活だと形中心になるだろう?
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一つは高社会福祉制度による「高税率」と「富の大量な再配分」だ。
高い税率はどういう意味をしている?
もちろん、社会貢献というポジティブな意味も含まれるが、人々に直接働きかけるもっとわかりやすい意味は、「お金持ちになればなるほど損する」ということである。
収入を増やせば増やすほど税率が上がり、社会福祉制度からの恩恵が減るので、社会のトップレベルのお金持ちになろうとするフィンランド人は日本よりも割合が少ないと思う。(と推測できる)
となると、「とりあえず収入を増やそう!」「他人との競争に勝とう!」というようなこともフィンランドでは人生目標になりにくくなる。
更に、「社会福祉による富の再配分」も一つとても大きいな影響要因だと思う。
つまり、「失敗しても大丈夫」「貧困になりにくい」ということが社会の一般的な認識になりやすい。
「とりあえず生きるために働く」必要性は比較的に低い。
二つをまとめると、フィンランドは「一生懸命稼ぐ必要性があまりない」「失敗しても大丈夫」「働くことは収入を得るだけではない」という世界だ。
是非読者の皆様に想像してみてほしい。
このような世界で生きているなら日々何をしたい?
「楽しい」とはどのようなことか?
他人と洋服のブランドを比べる必要はあるだろうか?
他人のバッグのブランドを気にする必要があるのだろうか。
他人の肩書はなんであろうか、気にする必要があるのだろうか。
日本には本質の伴わないことがたくさんある。(もしくは本質への認識が薄い)
例えば、カフェの店員さんはよく「こんにちは~!」(しかも元気よく)と言ってくれる。
筆者もその元気のよい「こんにちは」に気づき、誰か言ってくれたのかなと思い、店員さんを探したが、その店員さんはただこんにちはを言っただけで、「誰かに目を合わせて言っているのではない」のだ。
つまり、空気に対して言っているようなことだ。
これはまさに「形」はきれいだが、「本質」が伴わないことだ。
このようなことはフィンランドでは起きない。
店員さんがあいさつする場合必ず一人のお客様に目を合わせ、会話しているように挨拶する。
目を合わせないなら、「挨拶しない」。それだけ。
例えば、資格とか試験とかは日本にたくさん存在している。
その資格を持っていないとできない仕事があるので取らないといけないのはもちろんわかる。
しかし、「とりあえず資格を取っておこう」というような考え方も本質が伴わない形だけのことだと思う。
例えば、ファイナンシャルプランナーとか、ファンドレーザーとかの資格がある。
その資格を取りたいなら、なぜ取りたい?どのように活用したい?どのように自分の人生を豊かにしたいかを考えているのだろうか?
「取るだけために受ける」だけになっていないか?
取るだけの行動になっていないか?
別に形だけの人生はだめだと言っていない。
そのような人生も別に犯罪ではないし、他人の迷惑にもなっていない。
筆者から勝手に「本質」っぽいことを言わせてもらうと、形だけの人生はすごくもったいない。
自分の幸せ、自分のやることの意味を考えずにただ日々を過ごす。
読者のあなたは今日どのように過ごしたのか?
今日も本質の伴わない他人の年収を気にしているのか?
今日は自分にとって本当に楽しいことは何かを考えたのか?
今日から物事の本質を考えてみる癖を身に付けてみないか?